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東京高等裁判所 昭和45年(う)2234号 判決

被告人 伊藤誠次

主文

本件控訴を棄却する。

当審における訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、被告人提出の控訴趣意書、弁護人渡辺邦守提出の弁論要旨に記載されたとおりであるから、これを引用し、これに対し当裁判所は次のとおり判断する。

被告人の控訴趣意一の(一)および弁護人の弁論要旨一について。

被告人の論旨は、原判決は判示第一の一において、被告人が道路左側にある知人の家の方を見ながら、いわゆる脇見運転をしながら進行したため、その間に道路右側の農家の出入口(露地)から道路上へ約一・五米進出して被告人の車の通過を待つていた早川孝一運転の普通乗用自動車を約三・五米前方で初めて気付き急制動の措置をとつたが及ばず自車の右前部を前記早川孝一運転の自動車の左前側面に衝突させてこれを損壊して安全運転の義務を怠つたと認定しているが、被告人は時速四〇粁で進行して来たのを時速一〇粁に減速し安全進行の注意を払つて現場に差しかかつたところ、早川孝一の運転する乗用車が突然道路に進出したのを約三・五米前方で発見し急停車の措置をとつたが間に合わず衝突したのであつて、原判決認定のように、早川孝一が被告人の車の通過を待つていたのではなく、早川車の路上進出と被告人がこれを発見して急制動の措置をとつたのは時間的には同時であり、また本件現場道路は幅約四米で路の左右には軒下に達する立木の塀があり薄暗い場所であり、本件事故現場の如き農家の裏出入口のあることは遠方よりうかがい知ることは普通人としては不可能な状況であり、逆に早川孝一の居た庭内からは被告人の車が進行して来るのを垣根の木の間をすかして容易に発見できるのであつて、現に早川は、被告人車が約一〇米左前方路上に進行してくるのを庭内で認めていたのであるから、同人こそ直進する被告人車の進行を妨害しないよう、被告人車の通過を待つて道路に進出するか又は車から降りて左右の安全を確認して道路に進出すべき義務がある。それ故、同人が右義務に違反して漫然と道路に進出したことが本件事故発生の最大原因であつて、被告人には何らの責任はないのであるから、原判決には判決に影響を及ぼすべき事実の誤認があるというのであり、弁護人の論旨は、被告人が本件衝突事故直前において、進行方向左側を見、前方を見ていなかつた時点があることは被告人も認めているところであるが、被告人の右脇見運転は本件事故の原因ではない。すなわち、被告人が右脇見をして走行した距離は、約三・二米であり、これを時間に換算すれば、一秒弱(被告人の供述する当時の速度の時速約一五粁による)、ないし一秒強(早川孝一の供述調書による被告人の当時の速度の時速約一〇粁による)に過ぎず、そして被告人が脇見運転をし始めた地点から衝突地点までの距離は六・七メートルで、時間にすれば約一・九秒ないし二・八秒であり、しかも右距離は被告人が脇見運転をし始めた時点からの距離であって、早川孝一運転の車両が被告人の進路上に進出したのを認め得る時点から、衝突地点までの距離及び時間は、右よりも短いから、従つて被告人が脇見をしないで前方を注視し右早川孝一の車両を認めて直ちに急制動の処置をとつたとしても、被告人車両の速度、本件路面が砂利道であることなどを綜合的に判断すれば、被告人の車両が本件衝突地点より前で停車し得たとは考えられない。しからばハンドル操作により本件衝突地点を避け得たかというに、本件道路の有効幅員は三・三米(原審検証調書)で早川孝一の車両が右道路上に約一・二米進出しており、被告人の車両が右車両を避けて進行し得る余地は二米余りしか残されていないから、被告人の車両の幅は約一・五米前後と推認され、物理的には前記二米余の余地を進行することは可能であるが、一般の自動車運転者にとつて、突如脇道から、しかも本件で早川が進出してきた場所は、道路ではなくて庭先或いは玄関口とでもいうものであり、通常車両等の進出が予想されない場所であり、この様な場所から突然進出して来た車の前方をかすめて同車と衝突することなく進行することは不可能である。万一被告人にいく分かの注意義務違反ありとしても、本件事故は、道路上を進行中の被告人車両を認めながら、その動静を十分見きわめないまま、いわゆる庭先から、道路上に車両を進出せしめた早川孝一の注意義務違反によるところが大であり、同人の注意義務違反に比較すれば、被告人の注意義務違反は微々たるもので、道交法七〇条の予想する注意義務違反には当らないと主張する。

よつて、原審記録を調査して検討するに、原判決が掲げる証拠によれば、原判示第一の一の安全運転義務違反の事実は十分これを認定することが出来、原審記録を調査しても原判決の右認定には所論の如き事実誤認は存在しない。すなわち、右証拠によれば、早川孝一は、司法警察員作成の実況見分調書添付の交通事故現場見取図の〈A〉点(早川衛方露地内)において、左方垣根の隙間を透して被告人の車両が本件道路を左方(北方)から進行して来るのを認めたので、自車は道路に出て北方に左折するつもりで、右露地より約一・五米自車の頭部を道路上に進出させて右図面の〈B〉点に停車し、被告人車の通過を待つべく左方を見たところ、被告人がその進行方向左側にある知人の家の方を見ながら脇見運転をして進行しており、被告人は、右脇見を終つてから、約三・五米に接近して初めて早川の車両を発見し、急制動の措置をとつたが間に合わず、被告人の車の右側前部を早川車両の左前側面に衝突させてこれを損壊した事実が認定できる。被告人は、早川車両は停車して被告人車両の通過を待つていたのではなく、その道路進出と被告人がこれを発見し急制動を施したのは、時間的には同時であると主張するけれども、右主張事実を認むべき措信するに足る証拠はなく、原判決の認定に添う原審証人早川孝一に対する尋問調書、同人の検察官及び司法警察員に対する各供述調書の各記載は、十分これを措信し得るところである。そして、右〈A〉点と〈B〉点との距離は、約一・七米であり、これを時速五、六粁で進行すれば(原審証人早川孝一に対する尋問調書)、所要時間は約一秒と認められること、また早川孝一は〈A〉点において垣根の隙間を透して被告人の車を左斜約一三米の道路上即ち右見取図の〈一〉’の地点に発見していること、被告人の速度が時速約一五粁であつたこと等を綜合すれば、被告人が右〈一〉’の地点から脇見を開始した同図〈一〉の地点まで約一秒を要したものと認められ、従つて被告人が右〈一〉の地点で脇見を開始したと殆んど同時刻に、早川孝一は〈B〉点に進出し停車したものと認められる。それ故、被告人において脇見をしていなければ、右〈一〉の地点附近において早川車を発見できた筈であり、同地点から衝突地点までの距離は約六・七米であるから、発見と同時に急制動をすれば、本件道路は未舗装の砂利道であるから、辛うじて衝突を免れ得たと認められるのである。弁護人は、被告人が脇見運転をせず前方を注視し早川車発見と同時に急制動を施したとしても本件衝突は不可避であつた旨主張しているが、右主張は、被告人が脇見運転をせず前方を注視していた場合における、早川車を発見すべき地点について、当裁判所の前記認定と異なる地点を前提とするものであるから採用できない。その他所論は、早川が進出して来た場所は庭先又は玄関口とでもいうような場所であつて、この様な場所から自動車が進出するなどとは通常予想されないとか本件事故現場の如き農家の裏出入口のあることは遠方よりうかがい知ることは普通人としては不可能な状況にあつたというが、原判決もいうように、本件道路は道幅も狭い上、その両側には人家があり、沿道の人家もしくは露地から人や車が道路に進出する場合には、通行中の車両と接触し易いと認められるから、通行車両は速力を減ずるは勿論前方に対して十分の注意を払うなどして安全な操作の下に進行すべきであり、脇見運転などは瞬時と雖も許さるべき場所ではないのである。しかしながら、以上の当裁判所の判断は、早川孝一において安全運転の義務違反がなかつたことを認める趣旨ではない。すなわち、前記のように、同人は既に庭内において、垣根の隙間を透して、被告人車の進行を認めているのであるから、直進する被告人車の進行を妨害しないように、同車の通過を待つて道路に進出する等注意して運転すべき義務があるのに、これを怠り、被告人が自車に気付いてくれるものと軽信し、漫然道路に進出した点において、同人にも安全運転の義務違反があることは明白である。さればこそ、同人も罰金一万円に処せられたのである。これを要するに、本件衝突事故は、被告人と早川孝一両名の各安全運転義務違反の競合によつて生じたことは否定できないところである。それ故、原判決には所論のような事実の誤認は存在せず、各論旨は理由がない。

被告人の控訴趣意の第一の(二)、および弁護人の弁論要旨の二について。

各論旨は、要するに、原判決は、判示第一の二において、被告人が本件衝突事故の発生を直ちに最寄りの警察署の警察官に報告しなかつたと認定し、これに道交法七二条一項後段を適用しているのであるが、なるほど本件事故発生は午前一一時五五分頃で、被告人らがこれを警察官に報告したのは同日の午后七時頃であつて、六、七時間の経過後の報告であるから、右法条にいう「直ちに」には該当しないかも知れないが、同法条の法意に照らし、右の「直ちに」とは「遅滞なく」の意味と解すべきであり、しかも右六、七時間遅れたのは右両名が示談交渉をしていた為であるのみならず、六、七時間後とはいえ、事故の当日中に報告していて、右七二条の立法趣旨を何ら害していないのであるから、違法性がないか若しあるとしても著しく軽微なものであつて、処罰に値しないものである。それ故、原判決が、右事実を認定し右法条を適用したのは、法令の解釈適用を誤つた違法があるというに帰する。

よつて、按ずるに、道交法七二条一項後段にいう「直ちに」とは「遅滞なく」の意味に解すべきことは所論主張のとおりであるが、原審証人早川孝一に対する尋問調書、早川孝一及び被告人の検察官および司法警察員に対する各供述調書、原審で適式に証拠調のなされている交通事故発生及び捜査報告書によれば、被告人と早川孝一は、本件事故発生直後現場で話合つた結果、人身事故もなく、物損事故もたいしたものではないというので、話合いの上示談をしよう、そして示談が成立すれば警察には報告しないつもりで、同日午后話合うことを約して、両者共別れて自宅に帰えつたが、被告人が約に反して早川宅を訪れないので、早川の息子が被告人宅を訪れたところ、被告人は酒を飲んで寝ており、これを聞いた早川が被告人宅を訪れ示談の交渉をしたが、結局両者意見が対立し話合いが纒らなかつたので、同日午后七時二〇分頃右両名が警察に屈け出るに至つた事実が認められるのであつて、かくの如きは、右七二条一項後段の立法趣旨を云々するまでもなく、同条項にいう「直ちに」というに該当せず、同条項違反が成立することは多言を要しないところである。原判決が判示第一の二の事実を認定し、これに対し右条項を適用したのは正当であり、この点に関し所論の如き法令解釈適用の誤りは存在しない。それ故、右所論は採用できない。

よつて、本件控訴は理由がないので刑訴法三九六条に従いこれを棄却すべく、当審における訴訟費用は同法一八一条一項本文に従い全部これを被告人をして負担せしむべきものとし、主文のとおり判決する。

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